草創期のエピソード

その1 「デーリー東北」記事(昭和32年12月26日)より
  •   八戸ゴルフクラブ(HGC)の発会式が昨日25日午後2時から新設された更上閣室内ゴルフ練習場で行われ、会則と役員を決めたあと会長に選ばれた渡辺日曹製鋼八戸工場長が、処女球を的に命中させ練習場開きを行った。
      同クラブの会員は市内の主に経済人や工場関係者63人。入会金2,000円、会費500円で会員の紹介があれば入会することが出来、春までには一般によびかけ会員を倍にする予定。会長渡辺正明(日曹)副会長滝崎清男(ハ戸がス)同、川村彌永吉(弁護士)。
      更上閣わきに新設された練習場(建設費30万円木造平屋)は26坪、練習台4基で更衣室があり、観光協会で管理することになっている。尚、同クラブは来春には市内の適当な場所にゴルフ場をつくる計画を立てているほか、三沢の米車のコースを週一回借りることを交渉することになっている。
  • 1957年 更上閣室内ゴルフ練習場

その2 タウン誌「うみねこ」(昭和53年5月号)「八戸ゴルフ倶楽部誕生の頃」より抜粋
・八戸ゴルフ倶楽部の沿革   滝崎清男
  • 何とかインドアからでて、フリーでゴルフやれないものかというので、角ヶ浜にコンブを干すところがあり、9ホールできそうだというので、そこの漁業組合長と話し合いをして5月のコンブ干し期間だけを除いて、年間5,000円で借りました。それで33年、34年と続いた。やってるうちに漁業組合員の中から「庇を貸して母屋をとられるんじゃないか、八戸の偉い人ばかり行くもんだから」との声が出てきたこともあって、こちらから辞退、35年になって河原の方に作ろうということになった。河原は石堂と日計の部落で放牧をやっていた。堤防を作る時に県が放牧を許したらしい。我々が借りようとした頃は、沢山放牧の牛がいて夕方になると子供が尻をたたいて連れて帰る。なかなかウンという返事をもらえなかったが、とにかく橋の上の方を貸してほしいといったのです。最後には放牧代替地に牧草の肥料用として年間、肥料100俵あげるということで落ち着いた。この肥料はゴルフ予定地以外、下流や対岸のところでまいて下さいということで。
    日東化学硫安オンリーの時代で、1、2年目になったら牛もこなくなったし、時代の変遷で牧畜の方もやられなくなった。それから市長の所へ行って河原を貸してほしいと陳情したらよかろうということになって、県の方へ陳情書を出してようやく借りたのが36年3月。最初は3ホールでPAR5・3・3でした。それから間もなく6ホールのコースにしました。
  • 1959年 角ヶ浜で第1回ゴルフコンペ

・座談会から
  •   32年に、更上閣の今の図書館の所に二、三間のちゃちなインドア作ったんですが、物足りなくなって角ケ浜の青空のもとで練習をしてるうちに、図書館が建つので壊され、幸い熊谷義雄さんに遊園地のわきに今度は本格的なインドアを作ってもらった。角ケ浜の方はおっぱられて馬淵川の河原に来たわけ。同時に三沢の駐留軍が作った本格的なコースにもお願いして入るようになった。それでもあき足らず六戸ができたという順序でいくわけです。
      河原のゴルフ場を開いた時にひとりの功労者がいます。後で軍指令になった、当時基地隊指令をやっていた方が飛行場の草刈機で草をかってくれた。演習ということで。
    何しろヨシズがひどかった。河原で打ったボールをよく牛にぶつけた。ヤギもいた、ヤギにぶつけると追いかけてきたものです。
  • 馬淵川原に飛行機着陸、河原のヨシズ

・当時の役員紹介  佐々木隆蔵
  •   遊園地の練習場が撤去される直前に、プロゴルファー陳静波をコーチに招いたことがありました。36年9月9日のデーリー東北に載っております。又、六戸の十和田国際カントリークラブの設立は38年8月7日です。いろいろいきさつがあって、はじめ岡工務店が六戸の牧野組合と接渉しその後、村松建設に移って実際にできたのは村松建設の施工で、コース設計は陳清水だった。
      役員は会長村松昌平、理事長滝沢清男、副理事長が私の顔ぶれでした。株式発行は47年2月、500万の出資です。開場始球式に八戸市長代理で林君がやったが、クラブがボールに当らずドッと来ました。招待プレーヤーは中村寅男、石井友雄、陣清波など華やかなものでした。六戸が出来て滝沢さんは八戸の会長を中村武晴(高周波工場長)さんに申し送り、中村さんも2年位で八戸を去ったので、39年から私が会長をつとめたが私も2年で、後を小幡君に会長をつとめてもらいました。リバーサイドコースが6ホールで不満があり9ホールを計画したのは36年だった。石堂の池のところに事務所を置いた頃です。役員は顧問熊谷義雄、牧浦好之助、川文作、会長滝崎清男、副会長於本重義、川村彌永吉等々です。
      リバーサイドコースが9ホールを完備したのは41年から10年間小幡さんが会長をやってからです。41年の会員数は134名、50年には222名と増加、繁栄しております。
  • 1961年 指導する陳静波プロ